1. トップ
  2. コラム
  3. 八幡本通りと「真黒なお弁当」

八幡本通りと「真黒なお弁当」

yjimageyjimage3 

「真黒なお弁当」のお話をご存知でしょうか、そのお弁当の持ち主で広島二中(現広島観音高校)の生徒だった折免滋君のお家が、この坂の写真の左側に見えるお宅です。
 ここは佐伯区八幡本通りに面した「郡橋の西詰の急坂」です。かつて石内線の広電バスがこの狭い道を通って郡橋を渡っていたなんてなかなか信じられませんよね。
 昭和20年8月6日原爆が投下された日、広島二中の生徒の多くは朝から建物疎開にかり出され、1年生はほぼ全滅と聞いています。現在の国際会議場のあたりで被爆した折免君は、黒焦げの遺体となり、その朝お母さんが作ってくれた弁当と水筒を持って亡くなっていたそうです。わが子を探して入市したお母さんは、滋君を探しますがなかなか見つかりません。そして、多くの遺体の中から、弁当を持った遺体を探し当てたのです。それはまっ黒になっていたとはいえ、間違いなくご自身がその朝に詰めたお弁当でした。その心中を察すると今こうやって文章を書きながらも、落涙を禁じえません。
 かつて三和中学校で教鞭をとっておられた児玉辰春先生はこうしたエピソードをまとめられ、文章として発表されました。またこのお弁当箱は現在も原爆資料館に展示されています。
 折免家はこの位置で歯科医をされていました。当時お父様とお兄様は出征中。13歳だった滋君とお母様は竹藪を開墾して畑にしました。そして、収穫された作物で作ったおかずが弁当に詰められていたそうです。
 その後、当時小学校4年生だった弟の昭雄さんと昭和24年に生まれた弟で滋君の一字をとって名付けられた滋雄さんは、ともに修道中高に進まれ、二人とも内科医となられ活躍されました。
4_iei6当時13歳だった折免滋くん
516V81YJE3L児玉辰春先生の書かれた「真黒なお弁当(絵本版)」

更新日:2016.07.07