商店街と歴史
「宮本自転車でお茶してくるね」
「免出商店の店の中で呑みよったでぇ」
「あの人があられデビューしたんか?」
「砂入の若いしに送ってもろうたで」
「きょうの会議はてるてるでぇ」
「総会は塾でやるんと・・・」
「免出さん、電気つかんけ、ちょと来てや」
「田尾さんに、米頼んどかにゃ!」
「小田さん、襖にインクが飛んでしもうた」
「山田も二井も活きがええよ!」
「肩がにがるけぇ、はにまるず行ってくるわ」
「まーくるで、まったりしようや」
「濱崎さん、名刺のうなったあや!」
2013年春、私たちはあらためて動き始めました。
もっと地域のためにできることがあるんじゃないか?
もっと、地域の皆さんとともに歩けるんじゃないかと・・・
これまでの取り組み
- 2013年
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6月 チラシ広告 7月 八幡本通り七夕まつり・七夕まつり落語会 8月 盆踊り大会(協賛参加)・チラシ広告
八幡川ふれあいまつり(協賛参加)12月 チラシ広告 - 2014年
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2月 チラシ広告
八幡本通りふれあいまつり・合格祈願祭
(薬師縁日協賛)
お互い様広告実施・チラシ広告6月 チラシ広告 7月 八幡本通り七夕まつり
八幡夢ステージ(八幡神社夏越祭協賛)
八幡川ふれあいまつり(協賛参加)8月 盆踊り大会(協賛参加)・チラシ広告 9月 八幡本通り夢市場 12月 チラシ広告 - 2015年
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2月 チラシ広告 八幡本通りふれあいまつり・合格祈願祭 (薬師縁日協賛) お互い様広告実施・チラシ広告 チラシ広告 八幡本通り七夕まつり 八幡夢ステージ(八幡神社夏越祭協賛) 原民喜紙芝居「夏の花」上演 八幡川ふれあいまつり(協賛参加) 6月 チラシ広告 7月 八幡本通り七夕まつり
八幡夢ステージ(八幡神社夏越祭協賛)
原民喜紙芝居「夏の花」上演
八幡川ふれあいまつり(協賛参加)
八幡「ふれあい」本通り商店街
八幡本通り商店街を貫く通りは、古い文献にも登場する歴史ある通りです。
明治の初め、河内地区に造られた紡績工場。
原料の綿は、この通りを運ばれました。
昭和初期まで続いた八幡川の舟運によって、
この辺りには多くの店が軒を連ねました。
昭和の全盛期を過ぎ、
新たに大きなバイパス道もできて、
やや寂しくまばらになった感のあるこの道。
でも、古くからふれあいたっぷりのこの道は、今もしっかりと生き続けています。
薬師さんと親しまれる正楽寺
かつての八幡本通り商店街は、多くの商店が軒を連ね、歴史的にも古くから自然発生的に存在した商店群です。八幡川の舟運と古来からの主要道に隣接した地域を占め、佐伯区の中心的な存在だった時期もありました。
- 佐伯区のまちおこしキャラクター
佐伯景弘くん
平安時代の終わり、平清盛の頃、平清盛を支えて大出世を果たし、宮島の国宝社殿の造営に尽力した佐伯景弘は、当時の宮島の神主であったと同時に佐伯の郡の郡司でした。当時の郡の役所・郡家は、現在の八幡の利松地区にあったと言われ、その役所で行われる儀式のために建てられたとも考えられる郡神社は、現在の八幡(やはた)神社に合祀されています。その頃の八幡本通りは、まだ海岸線の浅い海の底だったと考えられていますが、その頃の道は、奈良時代に造られた国道で「影ともの道」とも呼ばれ、当時海岸だった八幡の西端の山裾を通っていました。
こうしたことから八幡本通りは、役人としての佐伯景弘の存在を思い起こさせる通りなのです。そしてこの「佐伯」の名が、はるかに時代を超えて、佐伯区の名の由来となったのです。
江戸時代、浅野藩の絵師だった岡岷山はスケッチをしながら湯の山温泉を通って豊平の都志見の滝まで見物に行きました。その際、彼は佐伯区を通っています。岷山は当時の保井田の庄屋宅で休憩し、その後に寺田を通っていますから、おそらく現在のお薬師さん横の寺地・保井田往還を通り、その途中を八幡小学校の校庭を通っていた旧道を通ったか、八幡本通りを通ったか、どちらかでしょう。現在の三和橋の所から彩が丘別れのあたりを通ったのは間違いありません。岷山はここでもスケッチをしており、地名を「寺田」と記しています。
江戸時代の終わり、幕府は長州を征伐するために、広島の西側に兵を集め、長州と対峙しました。佐伯区や廿日市方面はその戦いの最前線となりました。多くの兵が地域に入り込み、陣としたり、戦いが行われたりしました。その一軍は、保井田で激戦を繰り広げ、その後転戦して、河内の光乗寺を陣としました。その際には、この通りを通って移動したものと考えられます。
江戸時代末期から発達した問屋制家内工業による麻袋と、河内・湯来方面から集められた材木の一大集散地であった郡橋付近にはこれらを扱う材木店をはじめ、多くの商店が集まり、さらに商店は、その周辺から当時の幹道に沿って現在の八幡本通りを南下、また石内方面へと東にも、河内方面には北へ河内峠別れまでの商圏を形成しました。
つくられた麻袋は、郡橋のたもとの現寺田郵便局付近にあった船着場から、舟便で八幡川河口まで運ばれ、そのまま川舟に帆を張って、遠く呉・音戸まで行き、その麻袋に石灰を入れて返ってきたとも伝えられています。またその界隈は、湯来方面から切り出された材木の集散地となり、現在の郡橋を起点に東へ、北へ、そして南へと商店が軒を連ねました。
- 現在の山陽高速道路の巨大高架
その下あたりに、「広島綿糸紡績会社はありました
現在でもその石垣の一部が残っています
明治32年、現在のJR五日市駅(当時の山陽鉄道五日市停車場)が営業を開始。どうして五日市駅が造られたのかというと、当時下河内にあった「広島綿糸紡績会社」に原料となる綿花を鉄道を使って運ぼうとしたからです。
広島綿糸紡績会社は、明治15年の創業で、当時イギリスのマンチェスターから運んだという、水力の巨大タービンを据えていました。豊富な水量の八幡川から、そのタービンのための水を引き込む用水路をめぐらして、工場を稼働。下小深川地区で八幡川の東側を流れる用水路がそれで、現在でも勢いよく流れる水を満々とたたえています。
五日市駅まで鉄道で運ばれた綿花は、五日市駅で荷車や荷馬車に積み替えられて、旧西国街道を西へと進み、光禅寺・品正寺の前を通って右折、当時、背戸(瀬戸)の川(せどのかわ)と呼ばれた通りを北上して、八幡川の川筋に出たものと考えられます。そして、さらにこれを北上して落合橋の横を通り、保井田川の土手道に入った後、八幡本通りを通って下河内まで行ったと考えられます。
明治35年には、五日市出身の実業家・海塚新八の経営となり「海塚紡績所」と改名、その後、「山積製綿株式会社」「にしきわた株式会社」に・・・。
その間、通りは原料の綿花と製品の綿を運ぶ「綿の道」だったのです。
- 当時、公聚館があった場所
現在では面影はありません
また、八幡北部の北原は、佐伯区で最も土地が高騰し、4件の宿屋を備える商業地となって、短い栄華の時期をむかえたのでした。
さらに時代が下り、通りに隣接して常設された芝居小屋があったのは、戦前戦中の時期です。公聚館(こうしゅうかん)と言います。地方をまわる旅役者や地元の有志による田舎芝居は、地域を楽しませ、観客を集めました。
また、昭和20年の原爆投下直後、八幡商店街の一角に疎開した、三田文学の「原民喜」は八幡村での疎開生活を「小さな村」という作品にしています。その巻頭の小品「夕暮」に、原が最初に八幡を訪れた日のことを書いたのが、以下のくだりです・・・。
「村の入口らしいところで道は三つに岐れ、水の音がしているやうであった。(略)アイスキャンデーの看板が目についた。溝を走るたっぷりした水があった。(略)国民学校の門が見え、それから村役場の小さな建物があった。田のなかを貫いて一すぢ続いているらしいこの道は、どこまで続くのだらうかと思われた。」
三つの「岐れ道」とは、城山の三叉路のこと。この辺りで保井田川は音をたてては急ぎ足となり、八幡川との合流点へと流れていきます。三叉路の所にアイスキャンデーの看板がありました。用水路を流れるたっぷりした水、国民学校は今の八幡小学校、村役場は今の八幡公民館です。
また、疎開先であった田尾米穀店で書かれた原爆の記録「原子爆弾」は、当時の占領軍の検閲を恐れ、小説「夏の花」と題名を変えて後世に伝えられます。後に原民喜は原爆作家として有名な作家となります。
さて、戦中戦後を通して、日本の国はまさに厳しい時期を過ごします。その頃には広電バスが通る道になっていた八幡本通り。道路のそばを縫うように通る五日市用水路には蛍が舞い、夏の夜にはみんなが椅子を出してきて夕涼みをし、遅くまで子供たちの声も絶えませんでした。まさにふれあい通り、仲が良く人情たっぷりの通りの様子がそこにはありました。
戦後昭和20年代の終わりから30年代には、通りは、全盛期を迎え、大売り出しやくじの抽選を行う日には、東は沼田方面、北は湯来・水内方面からの大勢のお客様が通りに押し寄せたと言います。そして平素は、それぞれの店が、それぞれの場所で商売をしながら、地域の皆様とふれあい、そのそれぞれの家庭の一喜一憂を共有しながら、あたたかい商店街を形成していたのです。その精神は現在の我々の商店街の一番大切な部分として受け継がれ、そしてこれからも受け継いでいきたいと決意しています。八幡本通り商店街はふれあい通りです。それは過去においても、そしてこれからも・・・。
昭和40年代には、湯来線寺田バイパスができ、通りは幹線道としての役割を終えました。辺りには、大資本による大型店舗も次々にやってきました。八幡本通りも少しずつ店舗数が減り、残る店舗も少なくなりました。
でも・・・・。
でも、今だからこそできる地域おこし、小規模でも元気いっぱいのまちおこし、ふれあい通りの伝統のような、ふれあいいっぱいの通りおこしができるんじゃないか。私たちは、再びこの通りを活性化させようと動き始めたのです。
そして、数年。より多くの仲間たちに、この想いを伝え、是非多くの皆様にご愛顧頂ける、新生「八幡本通り商店街」として、そして、通称は今までどおり、ふれあいいっぱいの「ふれあい通り」とすることを改めて確認しました。地域のみなさま、ぜひよろしくお願いいたします。