八幡本通りから西側のお薬師さん(正楽寺)に向かう門前道、かつては寺地村と保井田村を結んだいわゆる保井田往還です。写真の右側にはその保井田薬師の宝形(方型)づくりの宝珠と露盤を乗せた屋根が見えています。昭和の頃までは薬師縁日にびっしりと露店が並んだ道です。
1866年、幕末に起こった長州征伐は長州藩と境を接する4か所で激しい戦闘が行われたため四境戦争とも呼ばれました。その4つのうちの一つが芸州口で大野・大竹・廿日市市の旧佐伯町方面で激しい戦闘が行われました。また廿日市は長州に攻め取られて拠点とされること恐れて、広島藩の手で焼きはらわれ、その中心部のほとんどを焼失したのです。
浅野藩の家老職で茶道で有名な上田家につかえた野村円斉の「長州征伐陣中日記」によると、上田氏率いる隊は7月19日の夕方から保井田に宿陣。「同20日、昼4つ時に同所を出立あそばされ、」その日のうちに河内の光乗寺を本陣としてさらに転戦したことが書かれています。その移動の際にはこの通りを通り、さらに八幡本通りを北上して、河内へと向かったものと考えられます。