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八幡神社、合祀改築記念碑

佐伯区の八幡(やはた)神社の境内にある合祀改築記念碑です。
 八幡神社は旧寺地地区にあった村社稲生(いなお)神社の境内地に、明治末の一村一社令によって、当時の八幡村内の神社を合祀した神社です。
 このとき合祀したのは、
1.寺地の稲生神社、
2.高井の稲荷(いなり)神社、
3.口和田の大歳神社、
4.室町時代の前期、南北朝の騒乱の頃勧請された寺田の宝神社、
5.平安時代末期に勧請された保井田の大歳神社(この神社は、嚴島神社本社と同じ3女神と嚴島神社客神社と同じ5男神が祀られており、時期も平清盛の頃の宮司・佐伯景弘の時代の勧請ということで、厳島神社や佐伯景弘とのつながりを深く感じさせます。ちなみに当時の神紋も嚴島神社と同じ二重三つ盛り亀甲に剣花菱でした)
6.保井田の大歳神社の摂社の竈(かまど)神社、
7.室町時代の中期に悪疫流行を治めるために勧請したという利松の新宮神社、
8.平安末期佐伯景弘が政務をしていた郡の役所(郡家)の近くに建てられたという古保利(こおり)神社、
で、明治41年に合祀の申請をし、実際の合祀創立し新たに大正神社と名付けられたのは、大正2年のようです。
この大正神社に、その後、昭和3年に一つだけ合祀せずに残っていた、東中地の旧八幡神社が合祀され、現在の呼び名「八幡(やはた)神社となります。
 この旧八幡神社は、他の神社よりはるかに古いと言われ、有名な伝説の人物・神功皇后が征西の帰途、この地に立ち寄り、船をつけた場所に鎮座したという神社で、祭神は神功皇后の夫で神楽・塵倫に登場する「帯仲津彦命(たらしなかつひこのみこと)=仲哀天皇」「息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)=神功皇后」そして、その子でのちに源氏の守り神となる八幡神「品陀和気命(ほんだわけのみこと)=応神天皇」です。征西に赴くときには、軍津(いくさつ)で軍船を整えたと言われ、この軍津(いくさつ)が西区草津(くさつ)の地名の語源です。
 尚、旧八幡神社の元の境内地は、八幡東の生協病院の裏山にあたる地に現在でも残っています。この碑は、全合祀完了後に行われた社殿改築の後、昭和9年に建立されたものです。
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更新日:2016.10.19