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八幡本通り商店街と八幡神社の石燈籠Ⅱ(文化5稔)

 dsc_1267-2佐伯区八幡の八幡(やはた)神社の境内の石燈籠の話が続きます。一村一社令で合祀された各神社からこちらの神社へいろいろなものが運ばれた話は前回いたしました。高井にあった稲荷神社から運ばれた自然石の見事な石燈籠についても書きました。
 さて今回ご紹介するのは、文化五年(1808年)に寄進されたことが刻まれている石燈籠ですが、この石燈籠にはちょっと不思議な謎があるのです。
 やや風化した花崗岩を加工してつくられた石燈籠で、おそらく、基礎(基盤)と竿(柱)と受け(中台)は同じ燈籠から、火袋と笠部は別の燈籠から、さらにアンバランスに大きい宝珠もまた別の燈籠から集めたものと思われます。おそらく、かつてあっちこっちの神社にあった燈籠から、使えるところを集めたものでしょう。
 さて問題は、この竿に刻まれた年号です。そこには年号が「文化五稔」と、「年」という字を同じ音の「稔」という字に代えて刻まれているのです。「稔」という字は「みのり」とも読めます。多くのみのりを祈って、このように書いたんでしょうか?
 そこで文化5年(閏六月を含む13か月の年にあたります)を調べてみますと、広島米は平年作だったようですが、関東・東北地方は年の初めから大雪、大雨や洪水にも見舞われた大荒れの年で大凶作、地震も発生しています。大阪の米相場も例年よりやや高く推移しているようです。広島の経済にも少なからぬ影響を与えたのかもしれません。そんな状況の中で、人々の豊作を祈る気持ちが、この字に込められたとも考えられますが、はっきりしたことはわかりません。ちなみに、あくる年、文化六年は豊作だったようです

更新日:2016.09.09